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谷口博之さん(元Jリーガー・サッカー日本代表)

2024-02-02Knot

2004年にプロサッカー選手としてデビュー。Jリーグの最前線で長年プレーし、日本代表にも選出された谷口博之さん。 「現役生活を終えたら、生まれ育った街で子どもたちにサッカーを教える学校をつくる」という長年の夢を実らせ、現在は横須賀市内でサッカースクール『パッパニーニョ』の運営と指導に当たっている。 やんちゃで勉強ぎらいの少年だったという彼が、サッカーを通じて子どもたちに何を伝えていきたいのか。 谷口さんのこれまでを振りかえりながら、スクールに込める思いを聞いた。 
Profile
谷口 博之
1985年生まれ、横須賀市出身

【経歴】
・小学校:鴨居SC
・中学校:横浜F・マリノスJrユース追浜
・高校:横浜F・マリノスユース
・選手時代:川崎フロンターレー横浜F・マリノスー柏レイソルーサガン鳥栖 
・2020年:パッパニーニョサッカースクール開校

【選手実績】
・06年 明治安田生命J1リーグベストイレブン
・08年 北京五輪U−23日本代表
・09年 日本代表
・13年 ナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)優勝
・明治安田生命J1リーグ通算350試合以上出場
・明治安田生命J1リーグ通算52得点

“悪ガキ”が、本気でプロを目指すまで

保育園時代からサッカーボールで遊び、小学校では『横須賀鴨居サッカークラブ』でプレーしていた谷口さん。小学3年生になった1993年にJリーグが開幕、世のサッカー人気も高まりをみせていた時代だ。
「母と兄との母子家庭だったもので、いろいろな遊びやスポーツに挑戦できるほど生活にゆとりはなく、ひたすらサッカーだけに打ち込んだ子ども時代でした。なかなかの“悪ガキ”だったと思うのですが、5年生のある日、やんちゃがすぎてトラブルを起こし、母を本気で悲しませてしまったんです。『これではマズい』と初めて我に返ったものの、挽回しようにも勉強が苦手な僕が人並み以上にできるのはサッカーだけ。親孝行するためには、本気でプロを目指すしかない、とそのとき決めました」 
鴨居SC時代。前列一番左が谷口さん(写真/本人提供)
(写真/本人提供)
朝まだ暗いうちに起きて走り込み、暇さえあればボールを蹴る毎日。持ち前のサッカーセンスと、黙々と練習を続けた努力が認められ、中学~高校は横浜F・マリノスのユースメンバーに。
「でも、そこからが苦しかった。成長期で体も変化しますし、戦術を学ぶのも難しい。何度も折れそうになりましたが、辞めずに踏みとどまれたのは、『ここまでやってダメなら納得できる』と思えるほど練習を重ねてきた自負があったからだと思います」
ユース時代(写真/本人提供)
2004年、川崎フロンターレに入団。念願のプロデビューを果たしてからは、主にボランチとして高い得点力を武器に活躍する。ひざに負った大けがを経て、惜しまれながら引退を表明する2019年までの16年間、J1では350試合に出場。ベストイレブンの獲得や北京五輪代表のほか、日本代表メンバーにも2度選出されるなどの輝かしい戦績を残した。 
(写真/本人提供)
(写真/本人提供)

サッカーを通じて、自分の可能性に気づけるスクールに

故郷・横須賀でサッカースクール『パッパニーニョ』を立ち上げたのは、引退の翌年にあたる2020年。コロナ禍でのスタートに苦労はあったそうだが、現在は市内のサッカークラブに通う子どもたちを中心に約100名の小学3~6年生が所属している。
引退後、地元でサッカースクールを開くことは20歳のときからの夢。そこには“悪ガキ”時代の谷口さんを支え続けた恩師たちの影響がある。 
「小学5~6年の担任の先生が、荒れていた僕にしっかり向き合って、エネルギーを良い方向に導いてくれたんです。鴨居SC時代のコーチもそう。父がいない僕にとってはお父さんのようでしたし、真剣に子どもの話を聞いてくれる大人たちがいたから前向きに成長できたんだと思います」
いつか自分も、子どもたちをサポートできる大人になりたい。そんな思いが谷口さんの原点だ。
「勉強が苦手な僕は教師にはなれないけど、打ち込んできたサッカーを通じてなら、支えていけることがあるかもしれない」
『パッパニーニョ』の大きな特徴は、少人数制を徹底し、実際の試合で起こりうる場面を想定した実践的な練習に力を入れていることだ。
「サッカーの試合では、同じ局面が二度起こることはありません。つまり、すべての要は状況判断。僕の経験から導き出した『大事な局面』を練習の中で再現し、何度も体験してもらうことで実戦に生きる対応力を身体に染みこませていきます」
選手のポジションを固定しないのも特徴で、その理由は「感覚や視点を広げてほしいから」。
「たとえば、いつも前にいる選手が後ろの役割を経験すると『こういう動きをされると、後ろの選手はイヤなんだな』という発見ができるかもしれません。普段いるサッカークラブでは、どうしても『ミスをすると試合に出られないかも』と考え、失敗を恐れやすくなります。ここでは評価を気にせず新しいことにどんどん挑戦し、できることを試してほしい。そこで、自分なりの“武器”を見つけていってくれたら」
叱る、怒るといったネガティブな言葉はかけない。狙いが良ければミスでも褒める。「イヤな言葉で伸びる子はいないですから。でも緩んできたなと思ったらきっちり引き締めますよ」と谷口さんは笑う。自分の中にあるまだ知らない可能性に、サッカーを通じて気づいてもらえるように。共に働くスタッフたちとも、そんな思いを共有しているそうだ。

横須賀の自然も、人も、食べ物も大好き

現在は指導のかたわら、『サガン鳥栖』のスカウトとして未来の選手の発掘にも力を注いでいる。3児の父となった今も、あふれる地元愛は健在だが、住まいはお隣りの葉山町に置いている。
「僕があまりに地元が好きすぎるんで、妻から『オン・オフの切り替えのためには程よい距離も大切だよ』とさとされて(笑)。自然が豊かだし、野菜がおいしいし、地元の人のちょっとクセがある感じも愛着がある。横須賀、大好きですね。最近は市内においしいワインが飲める店、ゆったりと食事ができる店が増えてきた印象がありますし、一方で、かしこまらずにワイワイガヤガヤできる昔ながらの酒場の雰囲気もたまりません」
横須賀・大津港が釣りのフィールド(写真/本人提供)
休日は子どもたちを連れて海釣りを楽しんだり、『ソレイユの丘』に遊びに出かけたり。実家の母ともたびたび顔を合わせているそうだ。 
「未だにサッカーを続けているほど身体を動かすのが好きで、とにかく元気。フルマラソンを走ったこともあるんです。子どもに頼らず、自分で楽しみを見つけて生きていく人なので、僕が勝手にやける世話をやいている感じで。いい母だと思っています」
谷口さんの他にも、横須賀市は多くの有名選手を輩出している。サッカー環境としての横須賀をどう見つめているのか。
「2023年に、久里浜に横浜F・マリノスの練習拠点『F・マリノススポーツパーク』がオープンしたのは、サッカーの振興においてとてもポジティブなこと。これを機に、芝のグラウンドや、子どもたちが学校帰りに練習できるナイター環境が増えていくといいな、と思っています」
地元出身の選手が、谷口さん同様、引退後にサッカー教室を開くことで横須賀がサッカーの街になっていく。そんな未来もあったら面白いな、と期待しているという。
子どもたちの健やかな成長を支える “お父さん” になりたい
プロになる夢も、サッカースクールをつくる夢も実現させた今、「次に目指す夢」についても聞いてみた。 
「子どもたちとの交流をもっと深めたいですね。僕が影響を受けた小学校の担任の先生は、卒業後もキャンプに連れていってくれたりしたんですよ。そういう勉強以外の体験を大人から学ぶことも人生にはプラスになる。『パッパニーニョ』でも“サッカー以外”の交流機会を生み出せたら、というのが最終的な野望です」 
ゆくゆくは、フットサルコートを併設したクラブハウスを持ち、学校を終えた子どもたちが自由に出入りできるようにしたい、というのが「最新の夢」だ。

「コーヒースタンドとちょっとした勉強ができるスペースがあって、そこで子どもたちは自由に宿題なんかをして、保護者の方たちはおいしいコーヒーが飲めたら理想的だな、と。毎年キャンプをしたり、いろいろな職業の大人を呼んで話を聞かせてもらう『職業体験』をしたり、やりたいことはたくさんあります」
「ささいなことも気軽に相談してもらえるお父さんのような存在に、僕や他のコーチたちがなっていけたら」と、谷口さん。その言葉から、子どもたちが健やかに学び、持てる可能性を伸ばしていけるよう願う、真摯な思いが伝わってきた。
Staff Credit
Written by Aki Kiuchi
Photographed by Yui Kuwabara
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